公開: 2019年10月17日
更新: 2019年10月20日
1945年8月11日、ソ連軍の樺太(からふと)島への侵攻が始まりました。樺太では、日本が無条件降伏した8月15日以降も戦闘が続いていました。8月15日、真岡港から島民の北海道への緊急避難が行われました。真岡郵便局でも、女子の局員は全員、引き上げ船に乗るようにとの命令に従うよう指示がされていました。しかし、8月16日の朝に行われた会議で、残留交換手に関する説明がなされ、電話交換業務の移管が終わるまで、真岡に残留できる交換手は申し出て欲しいと告げられました。8月17日、「全員が局に留まり業務を続ける」との回答がなされました。郵便局長は、海底電線敷設船を真岡港に回し、全員を疎開させると言う方針を出し、最終的に20人の交換手だけを残こす計画を立てました。
しかし、ソ連軍の侵攻は早く、全員の疎開が完了する前に、8月19日の朝からは、交換業務を通常3交代制で実施していましたが、非常勤務体制に変えました。8月20日の早朝には、ソ連の軍艦が接近してきました。この時、電話交換手は、12名が業務を担当していました。ソ連軍からの艦砲射撃で、真岡郵便局も被弾し始めました。孤立した郵便局の別館に残った交換手たちは、隣接する他の郵便局へ連絡を行い、「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら。」と言うメッセージを残して、順次、青酸カリなどを飲んで9名が服毒自殺を遂げました。